作詞、作曲:すんzりヴぇrP
弱音をポツリと漏らして
死にたくなったと言ったんだ
ホンの例えのつもりが
死ぬほど怒られた
99点取ったって
1点不足の反省会
満点とるまで眠れない
正しく眠れない
僕を だまらせるために
みんな たくさんコトバを置いてった
見えない煙を吐いているみたいに
プカプカ浮かんでいる
色の無い夢さ
見えない煙を吐いているみたいに
煙たがられて
むしろ更に燃えたんだ
キミといっしょにいたかったけど
むり!
名前を呼ばれたら元気よく
返事をして前に出てきなさい
規則正しく順番に
運ばれてくだけさ
Y/N=?
質問アリマスカ?
特に無ければ以上で終わります
見えない煙を吐いてるみたいだ
プカプカ浮かんでいる
意味の無い歌さ
見えない煙を吐いてるみたいに
煙たがられて
むしろ更に燃えたんだ
キミといっしょにいられないよ
けむり
むり!
——————
最初に結論を言ってしまえば、
「見えない煙」は、今回「溜息」と解釈している。
冬の足音が聞こえてくるような季節、
時刻は深夜だろうか。
腐れ縁の幼なじみに電話をする。
思わずこぼれた弱音。
そんな情景が浮かんでくる。
色のない夢は、未来に対して抱くイメージではなく、
過去、20年以上も前に在籍した中学のある日を思い出した、
その日みた夢だろう。
正しく眠れないのは、今の自分。
煙たがられるのは溜息(に象徴される自分)。
中学二年の自分だから、
吐き出したのは溜息の混じったタバコの煙だったのかもしれない。
今、吐き出すのは、白い水蒸気の粒だけだろう。
——
キミといっしょにいられないよ
けむり(ためいき)
むり!(ためいき)
——
この最後の「キミ」=「けむり」であり、
変わらない自分自身を指しているのだと考えている。
この曲をニコニコ動画で評価しているのは、
おそらく中学生や高校生だろうと思う。
表面だけ読み取れば、
はやりの、ちょっと悪ぶった感じの曲調を目指した詞に聞こえる。
でも、おそらく一番共感できるのは、
今も中学時代を夢に見てしまうような、良い大人ではないか。
非常にロックだ。
このうただけでなく、
作者の作品に対する内省的な姿勢は、多くの作品に共通している。
この姿勢を非常に尊敬している。
是非他の曲も聴いて見ることをお勧めする。
(出典: www5.atwiki.jp)
作詞、作曲:baker
いつまでも 遠い過去でも
君がいて 僕がいて
道の果て 見えない不安も
小さな声 押し殺して
冷たい空気も 止まない雨も
重い心も 言葉も
光が差し込んで 歩き出せるのは
いつだろう
色褪せたこの色も 君に伝えたい
何の意味もないけれど
夜明けは来ないよと 聞こえない振りして
いつの日にか 笑っていられるかな
騒ぎ出す 微かな予感を
溢れ出す 期待を
少しずつ 探し続けても
虚しいだけ いらない
つまらない一日が終わり
長い夜は恐くて
また朝が来るけど 何も見えないのは
何故だろう
何一つ変わらない 待ち続けてても
誰も救われないけれど
希望なんてなくても 僕は生きてくから
そんな強がり 虚しく響いていた
呼吸さえ 覚束ず
全て僕のせいだけど
聴きたい音があるよ 知りたい事もあるよ
前だけ見つめているよ
色褪せたこの色も 君に伝えたい
何の意味もないけれど
夜明けは来ないよと 聞こえない振りして
いつの日にか 笑っていられるかな
——————
Celluloidと聞いて私が浮かべるのは2つ、万年筆とメガネフレームである。
現在では易燃性の問題から
どちらにもあまり使われなくなってしまったが故に、
懐かしさを感じる、硝酸セルロースという素材である。
私がこの詞から感じるのは、「時間」だった。
この素材が過去のある時期のみに使われていたことから、
もう一つは、この素材が持つ時間経過による変化からだ。
セルロイドは退色するため、紫外線により色が褪せていく。
最後には痩せて(樹脂は痩せるという表現をする)、
ぼろぼろに朽ちていくのである。
私は、”色褪せたこの色”という色には、2つの意味があるのではないかという疑問を覚えた。
”色”は素材としてのセルロイドの色、そして”容色”をさしていると考えている。
容色とは小野小町がうたった”花の色”、であり世阿弥の言う”時分の花”である。
セルロイド製の万年筆は保管に注意を要する反面、退色は「味」としての価値も持つ。
伝えたい”君”が時間的、空間的にどれだけはなれているのかはわからないが、
”僕”は”君”との間に距離があるのだろう。
おそらく、年長の”君”と過ごした”僕”はまだ年小で、その頃を振り返ることは今も止められない。
”色褪せたこの色”は正に時間であり、良くも悪くも変わってしまったのは”僕”。
もう会うことの出来ない”君”に、変化も含めて今の”僕”を伝えたい気持ちで、黄昏を迎える。
それが私の解釈である。
”僕”が、語り手としての初音ミクであり、
キャラクターとしての初音ミクであることに、
このうたの深さがあると感じる。
Perfumeがなぜ声を加工するのか。
もちろん全体のサウンドとしてのバランスもあるとは思うけど、
僕は別の方向から考えていることがある。
それは声にエフェクトをかけることで、肉声から感情的な部分を排除して、
歌から解釈できる物語の多様化を目指すところにあるのではというものだ。
歌の詞とは、状況だけを説明するものでは決してなく、
ひとの気持ちをコンテクストの中で物語っていくものだと僕は考えている。
(演歌はこうしたコンテクストの展開が定型化され非常に完成されている。)
ひとの「気持ち」は実際のところ喜怒哀楽で単純化されるものではなく、
思考や感情や記憶が複雑に絡み、一言では表せないものだ。
歌もひとの気持ちの物語だから、この物語をどうつくり伝えていくかが重要であるはずだ。
しかしある年代以降、歌にうたわれる物語の「気持ち」の部分を、
コンテクストを通じてではなく、直接的なことばや感情を隠さない表現で
なるべくわかりやすく表すことが、より多くの人から受け入れられ、
売れる歌の要素になっている気配がある。
(ニコニコの歌い手のヒャダインなんかは、これをうまく茶化してみたり)
詞は読まれることではなく、歌われることが前提だから、
感情表現が直接的なことばであれば、
歌い手はその詞から読み取れる直接的な感情を歌に込めるだろう。
では、詞の作者が本当に伝えたい物語が、
一見、詞の表面上からすぐにわかるような感情と違う場合や、
詞にあえていくつもの物語を重層的に埋め込んでいるとしたらどうだろうか。
こうした場合、歌い手の声による感情表現は
意図した物語を”ぶらす”効果となる可能性がある。
よしんば歌い手が意図した物語を理解していたとして、発音されることばは、
聞き手の経験=先入観によって受け止められるから、
受け手が意図と違う「気持ち」を感じ、詞の作者の意図した物語が
うまく伝わらないこともある。
もう少し砕くと、Perfumeの歌は例えば歌詞にloveということばが含まれても
かならずしも恋愛をうたったラブソングではないのではなく、
別の解釈が可能ではないかという疑問が僕にはある。
この疑問から逆説的にあえて声を加工し、肉声の感情表現を抑えることで、
重層的な物語解釈のできるようにしているのではないかと考えている。
この疑問を浮かぶに至った歌については次に書きたい。
もう一つ加えると、僕はこの肉声からの感情表現のカットという方法論が
人間の肉声意外の音で詞を歌わせることがどのような効果を持つかであり、
Vocaloidの可能性であると考えている。これについてはまた改めて触れる。
作詞:後藤裕之、作曲:神前暁、歌:古原奈々
「ことばのパズル もじぴったん おりじなるさうんどとらっく」、2003
そら けせらせら うらら
ちょっと もじもじと でーと
こころ ころり ころんでも
きっと ずっと きみとぼく
ゆめ みた みらい みな みたい
ときめき どぎまぎ べりらっきー
きらら ら せきらら
ひとり ふたり ぴたり
ぴったん たんた もじぴったん
りんらん らんら もじぴったん
ぴたたん
よる べるがなる とぅるる
ちょっと もしもしと ちゃっと
ことば ひとこと かわせば
ほっと はーと ひとやすみ
こい した みたい むね いっぱい
うきうき やきもき だいすっきー
あらら ら くらくら
ひとり ふたり ぴたり
ぴったん たんた もじぴったん
りんらん らんら もじぴったん
ぴたたん
——————
ご存知『ふたりのもじぴったん』。
ゲームシステムにあわせてすべてひらがなで書かれているため、
比較的ちいさな子どもでも、意味が理解できる内容だ。
唐突だが、僕はこの歌詞はなかなか含むところがあるとみている。
ずばり、この歌詞の意味している「もじ」は
「好きな人の名前」ではないかと思う。
2番の歌詞を見ると、「ことば ひとこと かわせば」という箇所がある。
ずっとこの「ちゃっと」でかわす「ことば」ってなんだろうと考えてみたが、
「もしもし」はすでに前にあるし、
あいさつを交わしたところで「ほっと」するかというところが疑問だった。
あるときSkypeしていて考えたが、
これが通話の相手から呼ばれる、自分の名前だったらどうだろう。
相手に役割や姓ではなく、「自分の名前」を呼ばれることは、
相手と自分の関係を確認する重要な手続きだ。
1番の歌詞には、「ゆめ みた みらい みな みたい」という箇所がある。
ロマンチックで、音の響も秀逸な部分だと思う。
ところでこの主語は前節の「きみとぼく」だと考えるとすると、
「ぴったん」するのはなんだろう。
2番と同じく「もじ」が名前だとすると、「ぴったんする」のは、
相手の姓と自分の名前がひとつになることだというのが僕の解釈である。
(相手の名前と自分の姓でも同じ。)
結構な大人になってからだって、好きな人の苗字や名前と、
自分の苗字や名前をこっそり組み合わせてみたことのある人は少なくないんじゃないかと思う。
高校時代に入り浸っていた国語科研究室の古典の先生に、
平安時代には、異性(特に女性から男性)に名前を教えるということは、
相手に自分を許すということだったと教わった。
だから僕たちは、枕草子も清少納言も本当の名前を知らない。
僕は『ことばのパズル もじぴったん』というゲームをやったことはないけど(iPhone版は出ないかな)、
こうした解釈が成り立つとすると、このゲームは結構な洞察と哲学に基づいてつくられているんじゃないかと思う。
加えて、このうたを作曲したのがハルヒやアイマスにに関わる神前暁であるということも、僕の興味を引いたのである。
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